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☆パオがきてからブログをするまでの9年間☆
パオと初めて会って家族に迎えたのが1999年10月12日。
1~2カ月前からフレンチブルドッグを探していたんですが
そのころ今ほどフレブルはいなくて、見つけても雄だったりでした。
それにパイドの片目パンチを探してたのですが
クリームのパオを見つけたとき、迷わずパオに決めました。

1999年10月12日のパオ
きたばかりはケージに入れてましたが、うさぎのように跳んで
ケージから今にも跳び出てきそうだった元気いっぱいのパオでした。

しばらくしてフリーにすると、そこらじゅうでおしっこをして
フレブルは馬鹿なのかと、うんざりしたのを覚えています。

そのころ仕事も忙しく、パグ4匹とシーズー1匹がいたので
パオには躾らしい躾は出来なかったのです。
でもいつの間にか、おしっこは朝・夕方・寝る前の決まった時間にしか
しなくなったパオでした。
フレブルは賢いんだと、そのとき感じました。

ワクチンが終わって最初の散歩のとき、ぶるぶると震えたので
パオは寒がりなんだと思い、洋服を着せるようになりました。
真冬はマフラーをするほど過保護にしてました。
おしっこも決まった時間にしかしなくなったのと
私の真後ろをちょこちょこついてまわって、すごく懐いてきたので
試しに事務所へ連れていくと、実に大人しく私の膝の上か燐の椅子の上で
じっとしていたので、毎日連れていくようになりました。
仕入先や得意先の人たちに 『 会長 』 と呼ばれ可愛がってもらいました。

こうして2000年・2001年・2002年と
月曜日~金曜日は朝から夕方まで事務所、土日は家という生活でした。
朝から夕方もしくは夜まで事務所にいない時や出張の時は
家で留守番させたパオでしたが、分離不安症なのか嘔吐を繰り返してました。
この嘔吐と皮膚疾患以外は8歳5カ月までは病気は全くしなかったパオ。
いつもとは違う嘔吐をした時、結構大きめの携帯ストラップを誤飲したと分かった時も
獣医が 「 こんな大きなものがよく十二指腸を通ったものですね。
下手したら死んでたかも! 」
というほどパオは運が強く、ストラップは無事に便に出てきました。

2003年にテナントのペットショップのモデルにもなりました。
その11月にパグのプーが16歳7カ月で永眠しました。
翌年の04年1月に、私が骨折して入院した時はパオと離れるのが辛かったです。
二人部屋だったので一人部屋がある病院に転院した時
夫に頼んでパオを連れてきてもらった時も
何処へ連れて行かれるのか不安だったパオは逃げ回ったらしいのですが
私と会えると分かったパオは翌日から喜んで夫と一緒に
毎日、見舞いに来てくれました。
その年の4月にプーと仲のよかったシーズーのムクが
16歳1カ月でプーの後を追うに永眠しました

パオはほぼ私と一緒に行動してました。
得意先にも連れていったり、休みの日はネイルサロンや美容室にも一緒。
いろんなとこに旅行にも行きました。姫路・軽井沢・横浜・那須・和歌山・鳥羽・・・

2005年8月 軽井沢にて

2006年8月 鳥羽旅行の帰り伊勢おかげ横丁にて
この年の春に仕事をきっぱりとやめたので
一日中の仕事や出張もなくなり、パオとずっと一緒に過ごせるようになりました。
2007年には葵と出会い、翌年に葵を家族に迎えました。
2008年1月にパオが初めて子宮蓄濃症の手術をしました。
そして5月に黒パグのノアを10歳2カ月で
病院で家族の誰にも看取られずに、ひとりでさみしく死なせてしまったのです。
ノアと仲がよかったパオが、ノアと同じ運命をたどるとは想像もしていませんでした。
ノアを死なせてしまったショックから、なかなか立ち直れなかった私は
そのときいたベティ・みゅうみゅう・パオ・葵の想い出を残そうと
ブログを始めたのです。
2009年2月に14歳9カ月のベティを亡くし
翌年の2010年11月に12歳8カ月のみゅうみゅうを亡くし
2011年3月に doux がきて、3ブヒで楽しく過ごしてたのに・・・
特別な存在だったパオを亡くしたショックは、当分立ち直れそうにありません・・・

パオ・・・たまらなく・・・あいたい・・・


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